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旧陸海軍のコミュニスト

旧陸海軍のコミュニスト 
 年末年始にかけ中川八洋の本を久し振りに読んだ。タイトルは『山本五十六の大罪』である。
 中川八洋(筑波大名誉教授)の評価は2分されるだろうし、人格はかなりエキセントリックと思う。新解釈については論拠は飛躍しており、落ちた鱗がもう一度目に張り付いてしまう感じさえする。しかし逆になるほど「そういう見方も出来るか」と気がつかされることもある。
 さてこのブログを読まれている人で太平洋戦争に至る過程及び日本旧陸海軍の作戦指揮について興味を覚えている人はどれくらい、おられるだろうか?またどれほどの戦記や現代史書物を読んでいるかであるが、情報操作や官僚の責任論に関心があれば読んでみて下さい。
今回は中川が持論としている「日本の敗戦は日本をソ連支配下におく為に陸海軍のコミュニュスト軍人がそのように導いた」との解釈について考えた。
 全体主義は皆共産主義で左右の区別無し 
 中川八洋は近衛首相をソ連に通じた共産主義者と断じているし、陸軍参謀本部の多くが実は共産主義思想に共感していたとしている。なるほどと思うこともかなりある。
 そもそも中川に言わせると左右の全体主義と言う表現は間違えで、全体主義(対立政党の存在を許さない)は全て共産主義であり、共産思想はマルクス、レーニン主義だけではないとしている。全体主義や計画経済を是とするのは右を名乗る者も実は左であるとするし、スターリンとヒトラーはその残虐性だけ共通なのではなく思想に隔たりはないとしている(共産思想は国民の命など全く軽んじると)。
 故に戦前の右翼も現在の民族主義派も批判しているし、靖国神社も日本を破滅に導いた白鳥(駐伊大使)や松岡洋右など軍人でない者を祀る、とんでもない神社としている。
 なるほど2,26事を起こした将校などは共産主義思想にそうとう近いところを感じるし、満州を無傷でソ連に渡した陸軍参謀瀬島龍三などはソ連派の軍人と言われても仕方ない状況証拠が揃いすぎている。瀬島は戦後もKGBであったと言われ、自衛隊関係者を含め多くの人がその素性を疑っている(中曽根元総理はブレーンにしていた)。
 瀬島の一番の罪は満州を易々とソ連に渡し、多くの幼老婦女子を酷寒の地に置き去りにし、婦人はソ連兵の陵辱に任せ、兵士50万をシベリア抑留させたことだ。21世紀に入り既に10年、それら関係者、特に責任者は今や全員死んだが、棺をおうても責任を追及すべきと思う。なぜなら国民が悲惨な事実も原因を知らないと、同じ間違いが繰り返されるからである。
『山本五十六の大罪』はソ連に通じていたのは陸軍だけでなく、海軍も同様であることを指摘する本である。今まで親独派とされてきた対英米強硬論者、ワシントン条約に強行に反対した艦隊派の加藤寛治などは実は親ソであり反米はポーズであったと。最終的にソ連に日本を引き渡す為に、対英米戦争を仕掛けたというのである。
 また米内海軍大臣は若い頃(ロシア革命前)ロシアに派遣された武官であり、ロシア語が堪能である事が隠されているとしている。米内は親ロシアで革命によってソ連に変わると継続して親ソになったと断じている。 しかし米内は瀬島や高木惣吉(海軍少将-反戦軍人と言われている)とはちがいコミュニュストではないとしている。
 なお山本五十六は「頭のおかしいならず者」で実は艦隊派に属しており和平派は隠れ蓑としている。大体米内、山本を和平派と言うのは隠蔽工作がうまく行ったからで、その根拠は海軍次官時代に三国同盟に反対したからというだけであり、1940年に三国同盟が決まった時は体を張って反対していない。結局賛成した反米にたったものを者を和平派などとする評価がおかしいとしている。これまで米内と山本は実はアメリカと通じていたとか、フリーメーソンメンバーであり、アメリカに負ける為に戦争を仕組んだとの説が、出されていたが親ソとの「仮説」は初めである。
いずれにしてもこの本が指摘するように日本海軍の戦いは腰が引けいてて、負けるべく戦の連続だったことは事実だ。そして最期は優秀な国民であった当時の大学生や専門学校生の消滅を図ったとも言える特攻を行ったことは、一体あの戦争は誰(何)の為だったのかは検証されるべきだし、日本を徹底破壊してソ連に渡すと言う中川の推論は即全面否定も出来ないだろう。
海軍の作戦下手は初めから
 真珠湾攻撃の際、在米外交官の怠慢で宣戦布告が遅れ、真珠湾奇襲は「だまし討ち」とされアメリカ国民を怒りの渦に巻き込み参戦におい込んだのは間違いない事実だ。しかし外務省も海軍省も「だまし討ち」と言わせた世紀の不手際の責任を取っていない。「マリコ」で知られ戦後持ち上げられた外交官寺崎英成もこの手落ち組在米大使館の一人だが、その責任は問われず、むしろ戦後はGHQと皇族の間を取り持つなど成功組となり、柳田邦男により「反戦」外交官として美化された(ある意味、山崎豊子に取り上げられた瀬島と似ている)。中川はここはついていないが、随分まだるっこしい宣戦布告の仕方だとは感じていた。
 そこで宣戦布告の仕方を調べると分かるが、何も敵国に出向いて手渡す必要はなく、在京の米大使グル-を首相官邸に呼び、宣戦布告書を手交すれば良かったのである。
 1945年8月のソ連参戦時はまさにこの手法を取っている(8月8日深夜、マリク外相は佐藤尚武駐ソ大使をクレムリンに呼び宣戦布告している)。こんな事も知らずして「だまし討ち」のレッテルを未だに貼られている事を国民は知るべきだ。
 また真珠湾攻撃をした搭乗員は敢闘精神旺盛だが、ドック施設や燃料タンクを一切爆撃しなかったのは全く持っておかしい。軍艦だけ沈めても修理施設と燃料庫が無傷なら立ち直りは早いし、米本国から代わりに送られてくる艦艇への修理、補給はすぐ出来る。そして撃沈した戦艦は引き上げられ2年後に近代兵器装備の戦艦に改装して上陸作戦の支援艦として蘇り、島嶼派の上陸支援及び本土への艦砲射撃に活躍している。山本五十六らは港内で軍艦を沈めてもサルベージされることを考慮した事がないようだ(アリゾナなど破壊著しい旧式戦艦は廃棄され未だに記念艦として沈んでいる)。
 これは山本五十六以下真珠湾攻撃を立案した聯合艦隊の作戦指揮に戦略眼がなかったことを示す。ミッドウエー作戦も同様だ。発艦直前に攻撃を受けたとする「運命の5分」などではなく(これは沢地久枝さんらが見破っている)慢心、驕慢もあるが作戦が稚拙すぎて空母4隻を失ったのである。またミッドウエー島に陸軍の一木支隊(後にガダルカナルで一夜にしてほぼ全滅)を上陸させ占領させるつもりであったが、仮に占領しても補給が続かずアッツ、キスカ同様、翌年には玉砕か撤退となったはずだ。
 なお戦記に誤りが多いがミッドウエー海戦時では搭乗員はヨークタウンを大破させた飛龍隊のみ損害は大きいが他3隻の搭乗員は出撃前に攻撃されたので多くが駆逐艦に乗り移り日本に帰っている。(淵田美津雄も自叙伝でもそう記述しているし、私は空母加賀乗り組みの九七艦功操縦員だった深浦の故佐藤さんから直接聞この話を聞いている)。海軍搭乗員の大量損耗はソロモンでの戦いだ。 
 海軍の大罪はミッドウエーから生還した搭乗員を(敗戦が漏れないよう)軟禁し、その後から常に前線送りにして多くを生きて返さなかったことである。山本自身は空母艦隊の600キロ後方に戦艦群引き連れ支援艦隊としていたなど噴飯者だ。東郷のように率先して戦闘海域に行くか、せめて戦艦群を空母近くに配備し、攻撃を引きつけるか、そしてミ島の攻撃は戦艦部隊に艦砲射撃させればよかったのである。全くもって作戦目的の不徹底である。
またガダルカナル争奪戦時はあの傲慢狡猾な陸軍の辻参謀ですら激怒した程に山本らの聯合艦隊中枢は南洋リゾート生活を楽しんでいたのは他からも指摘されている(戦艦大和は大和ホテル、同武蔵は武蔵御殿と言われるほど冷房完備の豪華設備の旗艦で、高官らは国内では食べられない食事と夕食時はビールを楽しんでいた)。
 高級軍人の怠惰、卑怯
 ガダル争奪を巡って日本海軍は航空部隊と水雷部隊の活躍で沈没艦は米側の方が多いが、アメリカは建造なった新型戦艦を続々投入しているのに大和、武蔵はトラック島で快適生活を送るのみで一度も出撃していない。日本海軍は旧式だが高速を出せる巡洋戦艦クラスの金剛級のみの投入したが防御力が劣るので2隻の戦艦が撃沈されてしまったが、40cm主砲搭載の陸奥、長門さえ出撃させていない。当時空母部隊はほぼ互角だから単なる大艦巨砲主義の批判でなく、新式戦艦を投入すれば戦果を上げたはずである。
 島では食糧輸送がママならず半年のうちに1万人以上の陸軍将兵が餓死した上に、このソロモンの戦いで多くの搭乗員と多数の駆逐艦(乗員)を失っている。
山本はガダル撤退の2ヶ月後の4月に暗号を解読され待ち伏せ攻撃に遭い乗機を撃墜され死亡するが、その後の海軍の戦は更にヒドくなる。
 山本亡き後聯合艦隊司令長官を引き継いだ古賀峯一は、油断、無警戒により1944年2月にトラック島大空襲で甚大な被害を受けパラオに移動したが、3月末ここでも警戒、防空を怠り空襲を受け大きな被害を生じさせた。ここまでの無警戒は海軍を破壊してくれと言っているに等しい。トラックの指揮者、第四艦隊司令小林仁中将など将官達は釣りと宴会に明け暮れ、空襲時も何と搭乗員に休暇を与えている。海軍は迎撃しなかったことで現地軍の調査をしたが責任追及は甘く司令官らは責任を免れている。
 この後古賀司令長官ら聯合艦隊参謀一行はトラックを捨てパラオに移動するが、翌月のパラオ空襲に慌て、情報収集及び判断ミスで低気圧接近にも係わらずミンダナオ島のダバオ湾退避を図り途中、行方不明(死亡)となる。その際同行したもう一機の飛行艇は辛うじてセブ島沖に不時着水したが、それには福留繁聯合艦隊参謀長が乗っていた。着水した参謀達や随員は島に泳ぎ着くが何とフィリピン人ゲリラに捕られえらえ、暗号作戦書までも奪われるという万死に値する失態を犯す。しかし海軍はメンツ(将官が捕虜になどなるはずがないとの理屈)から免責し、作戦筒抜けの元マリアナ海戦を戦いサイパンを失う。また本人に良心の呵責はない者と見え自決せず終戦まで一線で指揮を執った。本人及び責任を取らない組織に明日はないことを証明しているが、後世の国民はここを良く知り、「伝統墨守、唯我独尊」と揶揄される海上自衛隊にそのDNAはないのか、検証する必要があるだろう。
 なお中川八洋は海軍乙事件と言われるこの福留についてはコミュニスト論は展開していないが福留始め人格破綻者でしめられた海軍と攻撃している。総括として旧海軍は現代海軍の主任務が陸上戦闘の支援である事に気がつかず艦隊決戦はその過程で起きるが戦争の帰趨はそれで決まらない事を認識出来ずに終わったとしている。これは正しい指摘だと思う。これが理解できなかった海軍はボンクラ集団としている。 
 古賀の後を継いだ連合艦隊司令長官豊田副武も、マリアナ、レイテ海戦時も東郷のごとく軍艦に座乗し作戦指揮はしていない。むしろ旗艦を東京湾においたりその後は日吉の防空壕に聯合艦隊司令部を移している。大和の特攻出撃時も同様で「一億特攻と言いながら自分は後方に身を置くのか」と批判されている。常に自分は安全なところに身をいて指揮を執り(或いは取り損ない)たくさんの部下を死なせている(マリアナ海戦で空母3隻と多数の搭乗員を失い-機動部隊の終わりを招いた。レイテ海戦で空母4隻、戦艦3隻、巡洋艦7隻、駆逐艦6隻撃沈され、ここに帝国海軍崩壊)。
 マリアナ、レイテ海戦の帝国海軍完敗-米の圧勝、完勝についてはネット検索で簡単にできるので、ご存じでない方は一読されたい。
 なおこのレイテ海戦時から特攻が始まっている。この海軍という組織の腐り具合と、部下(国民)には特攻を命じ、かつ投降を許さない戦を強要しながら、自らは責任も取らず戦後自決もしないのこの卑怯さは、いつになっても糾弾されねばならない。国民はこれら本質を捕える勉強をすべきだが、社会党時代、「反戦派」の多くは、この様なことすら知らない人が殆どであることに驚いた。観念論では駄目なのである。
 人材を失わせた特攻 
 海軍の大罪のもっとも糾弾されねばならないのは昭和19年10月後半からのレイテの戦いから20年8月15日の敗戦まで行った特攻攻撃である( 第5航空艦隊司令長官宇垣纒(海軍中将)は8/15玉音放送後に軍紀違反の特攻を図り若い搭乗員を道ズレにした-小沢聯合艦隊長官は「自決は自分だけでやれ、若い者を道ズレにするとは何事か」と激怒した)。
 アメリカの電波兵器と近代兵装の前に特攻しか攻撃方法が無くなったならば勝ち目は全くないのだから降伏を考慮すべきであり、ただ若者を殺すのは何の為の戦争なのかと言う、今日でも問われ続ける重大問題である。
 なお海軍主導で行われた特攻については中川は米内の責任を追及している。なるほど44年7月の東条失脚後、副総理格の海軍大臣となった時期に特攻兵器は開発され、10月末から実施しているから米内の責任は大きい(軍令部管轄の指摘があるとしても)との指摘は肯定する。米内が真の和平派(終戦派)なら早くてマリアナ、遅くてもレイテ敗戦の時期から終戦工作を始めるべきだし、特に有為な若者を犠牲にするなと特攻に反対すべきだが全くそれらをしていない。
 そして特攻だが軍エリートである海兵や陸士卒の佐官以上は殆ど特攻に行っていない。行かされた中心は海軍なら予科練、陸軍なら少年飛行兵それに戦中に引っ張られた学徒出陣組だ。陸士、海兵出のエリート達は自分たちが見下していた平民達である下級将校、下士官、兵士に爆弾背負わせて出撃させたのである。自分たちは選民で国民は信用できないから必死の攻撃にいかせた(これも共産主義故としている)。
 もし特攻が無ければ戦後の経済、政治、そしてスポーツや芸術家などで優れていた人が多数排出、活躍し、戦後の日本をより発展させていただろう。これら国民の役に立った優秀な人材を、誰の為か無意味に失わせた陸海軍の責任は後50年は追及すべきであると思う。中川も特攻攻撃を厳しく批判している。なお特攻の責任に関心のある方は渡辺洋二著『特攻の海と空』文春文庫¥514をお読み頂きたい。
 スターリンを頼った和平工作
 それともう一つの陸海軍コミュニスト論を知るには昭和20年4月からの鈴木(終戦)内閣以降の終戦工作が上げられる。何のと陸海軍は一貫してソ連、スターリンに和平を頼り切ったのである。
 これはソ連との交渉なら良いとする陸軍の為と言われるが、ならば陸軍参謀将校らのコミュニスト説をある意味納得させられるところがある。
 そして海軍の問題点も指摘される。レイテ海戦後、近代海軍として日本海軍は崩壊したと悟った海軍大臣米内光政は戦艦、巡洋艦など残存艦艇10隻程とソ連軍用機2千機と航空燃料と交換するというプランを自らたて、本当にマジメにソ連と交渉したのである(これは多くの記録で明らかである)。
 スターリンはヤルタの密約があるから当然これに応じなかったが、日本政府は完全にスターリンに足下を見られる事になる。東郷外相が「スターリンを信じるとはとんでもない」と抗議すると海軍出身の老宰相鈴木貫太郎は「スターリンは西郷南州のごとく立派な人間」と言っている。海相米内の入れ知恵だろうが、このような戦争指導者のもとで国民は犠牲を重ねていたのである。鈴木総理は早期和平派と思うが余りにお人好しであるし、不要コメントをして原爆投下の口実を与えた責任も重い(鈴木は7月末の記者会見でポツダム宣言は「黙殺」とコメントしトルーマンに原爆投下の口実を与えた)。
 そして1945年初め米との直接の和平交渉、すなわちアレン・ダレスとの和平交渉を図った海軍の駐独武官(当時は在スイス)藤村中佐からの報告を、米内や軍令部総長の豊田副武は「中佐ふぜいが何を」と歯牙にもかけず(一番重視しなければならない和平交渉回路)を握りつぶしている。ソ連(スターリン)との和平にかける為、米との直接交渉を逃げている印象大である。
 そしてその後「終戦内閣」は、沖縄島民10万人以上を道連れにした持久戦に入れ、本土では連日の空襲で日本全土の都市を灰燼に帰し、更に最終的にはポツダム宣言受諾にてまどり原爆まで落とされた。これを単にお人好しの外交とか、ものが見えなかっただけの終戦工作として見過ごして良いとは思えない。旧陸海軍のやった事は、今や日本人の殆どが目の敵にしている北朝鮮の金日成や金正日とどれほどの違いを見いだせるだろうか。故に中川の陸海軍コミュニスト論でソ連に「日本占領」をさせたかったは、それなりの説得力を持つ。
 なお中川は45年7月末以降ポツダム宣言受諾に米内が傾斜したのは、もうソ連に日本上陸は出来ないと見ての変身と推測しており、阿南陸相が自刃時に「米内を斬れ」と言ったのはソ連支配工作を土壇場で裏切った事に怒ったからではないかとしている。
 全く持って太平洋戦争は誰の為の戦争だったのかは、よく考える必要があると思う。中川が指摘するように国民をこの様に殺した責任とその思想の源泉は何処に(陸海軍コミュニスト論も含め)あったのか、考えて行きたいものだ。

 
 

by ichiyanagi25 | 2010-01-06 12:22

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