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谷内家VS吉田市長問題のとらえ方

谷内家VS吉田市長対立問題のとらえ方
議会は何処まで理解しているか
 6月議会は22日に終了したが、吉田市長が谷内家との交渉で、公金の支払いで決着することの無い様に緊急質問したいと22日の議運に申し出たが、研政連と自民の強い反対で質問できなかった。公明、新政会が「緊急質問の要件に当たらないとの理由で纏まらないなら、総務委で例月協議会を開いて歯止めをかければ良いではないか」と提案された。そこで、その提案を呑み議運委員長から総務委員長に伝えて貰うよう確認して取り下げた。
 しかし緊急性がないとの理由で私の質問を遮り、かつ吉田市長に縛りをかける対応も示さない会派は議員としての職責を果たしているのかとの疑問を感じる。
 今回研政連と自民はこの問題を一般質問(自民は1名を除き一般質問をしたことがない)せず、総務委員会の参考人審査でも本質を理解しているとは思えぬ質問であった(総務委16日の参考人招致録画をみれば明白)。
 そしてこの「55年体制」とも言える2会派に今回根本疑問を感じたことがある。それは吉田市長がアドバイザー料計上を見送った今年度予算案を、質問もせずに賛成したことへの責任と認識があるのかということである。疑問は賛成したことを忘れていないなら「市長が一方的に打ち切った」から等との指摘や質問は出来ないはずだが、それをしているのである。予算は議会の議決があって成立するのだから議会も責任を負うのである。また予算の議決は議員として最大の役割であるから、この認識がないとしたら議員を務める資格がないことになる。このことを有権者市民の皆さんはご理解頂きながらこの問題を注視して欲しい。
 訴訟は泥仕合か? 
 もう一つ議会の誤解を指摘する。
 谷内家から市長が訴えられる可能性が高い訳だが(現在返還リスト作成中で訴訟の提起が遅れていいるという)これを「泥仕合」とか「横須賀市の恥」と捉えている議員がいることである。
 日本は三権分立を取っている法治国家である。政治は法律の行間を埋める問題解決手段であり、どうしても納得いかない場合は裁判に訴え司法の判断を仰ぐのが近代法治国家のイロハである。今回の紛争は吉田市長と私が申したてた調停から始まり、昨年の裁判となる。調停文や訴状を読めば、市長がここまで谷内家を批判非難しておきながら、逆訴訟かけられたら、詫びを入れ「円満解決を」なんてどの面下げて言えるのかと気がつくはずだ。議員はここをつかねば行けない。
 吉田市長ならばこそしゃあしゃあと言えるのだが、それを議員は許してはいけないのである。
 また裁判を「泥仕合」と捉えるなら今後自分が起こす裁判も泥仕合となることを忘れないことだ。まして泥仕合「回避」のために絵を返して解決では話にならない。絵を貰ったから谷内館を立て10年間3千万円のアドバイザー料を支払ってきたのであり、十分な対価は市民税から支払っているのだ。返せと言うなら、谷内館からさっさと出て行ってくれくらいの覚悟がなければ市の財産は守れない。
 また横須賀の恥とは何だ。この対立の原因は社会常識にそぐわない要求から始まり、市長が実質原告になって、裁判を起こしたからなのである。そして今は円満可決なんて戯けた事を言っているが、これは要するに吉田市長のマッチポンプから起きていることなので責任は全て吉田市長にある。市の恥なんて事にはならない。寄贈品に対して市長が代わったからとしてこの様な返還請求裁判を起こせば谷内家の評価がかえって下がる。市は全く関係ない。と言う理解をしなければ吉田市長の責任は追及できないし、貰ったものの財産保全は出来ないのだ。もっと論理的に解釈して事に当たらねば行けないのが議員なのである。
 経過
 さて議会のとらえ方を縷々指摘してきたが、ここで何故こういうことになったか今回の問題を理解して貰うために経過を時系列で追いながら解説するので基礎編としてお読み頂きたい。この問題吉田市長と一緒に取り組んできた唯一の議員である私が、事の本質と、議会が吉田市長から利用されている事もあわせ明かにしたい。
 谷内家との横須賀市のアドバイザー契約について調べればすぐ分かるが、この谷内家は相当したたかな一家(六郎氏はとうに死去)であり、遺産を最大限に活用し利益を引き出す意欲に旺盛で、その様からは私は徳を全然感じない。
 谷内家からの寄贈話を沢田市長に持ち込んだのは元職員のイニシャルI氏である。これが結構調子よく谷内家と沢田市長を結びつけた。しかし同じく寄贈した朝井さん関係者と違い谷内家は様々なリクエストをだし、谷内家からすれば負担付き贈与契約に近い認識であったのは間違いない(事実谷内家は文書でそのように主張している)。しかし「負担付き贈与契約」論は議会でも明かにされたように議決事項であるから成立しない話だ。沢田氏は覚え書き自体実質隠していたので議会は覚え書きの存在すら知らなかったのである。この話を今更出すこと自体、谷内家も吉田市長に逆ギレして興奮混乱の様子が窺える。
 谷内家の回答書にもあるが当時一端話が壊れそうになったが、沢田市長の胆力の無さにより、谷内館も作ったし対価と疑われる25年もの信じられない「アドバイザー契約」が結ばれたのである(沢田市長は税金で支払うから心も懐も痛まないと感じたのか)。
 余り子細に書くとソースがばれるからぼかすが、今公開されている覚え書きは後につじつま合わせに作られたものである。この点は官房機密費をどう使ったか外部からは明らかに出来ないようなもので、当時の関係者、当事者を裁判で証人に呼んでも真実は語らないと思っている。
 要するに証明は強制捜査以外無理だが、不明朗な形での契約(市としては利益のない)であり、市としては本来結びたくない契約であったことは間違いないのである。当時もその後も谷内家との交渉に当たった職員は例外なく谷内家の対応を評価してしないし、契約継続を金科玉条にしている職員は私の知る限りいない。だから監査意見でも見直しをの時期であると言い、教委もその「助け船」に添って契約の見直し、打ち切りを考え出していたのである。
 議員はこの経過と実態を理解することである。私から言わせれば今議会で質問しなかった会派は本質に迫る調査もヒアリングも十分していないことを自ら示したような者だ。これでは中途半端追及と指摘せざるを得ない。
吉田議員ら誕生で美術館問題再燃す
 わたしは沢田市長時代美術館建設が決まった当時、美術館など何処にでもあり、よそから来た官僚沢田市長の陳腐な趣味としか感じていなかったから、建設そのものに反対であり、50億もかけるなら他市にも例のない航空博物館を追浜(航空技術廠あと)に作った方が良いと言っていた(その方が絶対客が来る-軍港観光のように-と確信していた)。
 しかし03年の選挙以前は旧社会が旧民社勢力と合流し出来た会派「研政21」に合流したため、私の美術館建設反対の意志は封じられてしまった(合流は連合の要請だが今でもこの合流は市民のためにならず、この会派に属したのは私の最大のミスと思っている。なお最大11名を誇った会派も非労組系2人を入れて7人に減じている)。
 02年までは実質反対派はおらず沢田市長として議会対応は楽なものであった。しかし03年の選挙後、吉田、藤野君ら美術館反対を掲げた新人が高位当選し、私も選挙中市民から建設反対の意見を多く聞いていたので、会派の圧力をはねのけ離団したことによって議会内で美術館建設反対が火を噴き出した。そしてこの動きは反沢田の市民及び建築業界とも呼応して美術館建設反対(見直し)運動は急速に広がったのである。
さて以上の経過を踏まえ、6万数千もの署名が集まりながらも議会多数の賛成で建設された美術館に対し何か一矢を報いる事は出来ないかと考えていた。
 そこに不明朗きわまりないアドバイザー契約の内幕が内部告発的に耳に入ってきた。吉田議員が情報公開請求すると谷内家のおねだり(要望書)や沢田市長の回答書、そしてアドバイザー契約の覚え書きが出てきたのである。
 そこで一昨年春に吉田議員(当時)にアドバイザー契約は無効であり不当な公金の支払いであるとして調停を申したて攻勢をかけようと持ちかけた。勿論議会で明らかにしたように蒲谷市長や副市長も本心はこの契約を面白く思っていなかったので政治決着を視野に3階と教委の感触を探りながら調停を申したてたのである。

つづく
 

by ichiyanagi25 | 2010-06-29 11:13

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