湘南論、なぜ藤沢に取られたか

湘南論、なぜ藤沢に取られたか
 12月議会では9人の議員が一般質問にたった。
 研政の角井議員が久しぶりに質問に立ち、市長の言う都市像とかビジョンはありふれた言葉を並べているだけで、中身が分からないとの趣旨の質問していたが、同感だ。市長はそれに少し色をなして反論。青臭い表現かもしれないがなどと言っていたが、反論時間はごく僅かであった。表現下手と言うより口先だけでのビジョンとしか感じられない。3つの主張と言うが市長就任から2年以上もたつのに殆ど具体案が出ないからである。市長の3つのビジョンとは以下だとご本人は言う。
1,水と緑に楽しめる街
2,命を大切にする街
3,人づくりの街
 この3つ、何か具体的に取り組んでいるとの実感は市民においても、あるだろうか?
 これについては今後質していくつもりであるが、今回は市長の歴史的認識に関してである。さて湘南論についてであるが、9月議会で浜野議員が何で横須賀に湘南の名がつくのか、おかしいというような質問をして、市長も「湘南ブランドに負けない街作りに努めたい」と答えた。お互い湘南の由来を調べていない質疑であったので、12月議会で横須賀がなぜ湘南なのかを展開して、市長に質したが、質問通告してあるにも関わらず、自らは湘南の由来を詳しく調べていなかった。これでは議論にならない。石原完爾ではないが思想が無い者とは議論は成立しないと言う言葉を思い出した。
 そこで多くの市民も不思議に思う何故横須賀に湘南がつくかという由来を開陳したので掲載する。湘南をなぜ藤沢や鎌倉に取られたのか?。これを許した横須賀の市民性を知ることも大事だと思う。なおこの質問をするにあたって山本詔一さんから資料を頂き、それを元に集中的に調べての指摘である。質問全文を貼り付けるので饒舌な点はご容赦を。
 質問 何故横須賀が湘南か 
 まず9月第3回定例会で浜野議員の一般質問での市長答弁について、色々感じましたので、この際改めて湘南の認識について伺っていきます。
 横須賀の地に何故に湘南を冠するか、湘南を問題にしながら、お互い湘南論の位置づけと歴史的経過については触れられておらず、良く理解した上での答弁なのかと甚だ疑問に感じました。
 市長答弁では『横須賀のネームバリューが葉山や湘南に匹敵するほどになれば、その地名が使われなくなるものと思う。都市イメージの向上をめざしてシティセールスの取り組みを進めて参りたい』と答えられています。
 この答弁をするに当たって、何故横須賀に湘南の名がつくのか、調べられ答弁されたのか、また湘南論が何処の所管か知りませんが、副市長以下、市職員や横須賀に詳しい方に相談したのか、あるいは職員から助言や資料提供はなかったのか、まずお答え下さい。

 先の質疑を聞いて湘南論については四半世紀ほど前、私の大先輩が口角泡を飛ばして横須賀が本家かどうか論争していたことを思い出しました。しかしこれは多くの横須賀市民も漠とした認識しかもっていないと思いますので、この際、中国の瀟湘(しょうしょう)八景にあやかり金沢八景とし、その南の地を指す湘南について、市長の認識を伺いたいと思います。
 なお、湘南についての歴史的経過を調べると、本市の都市イメージ作りと、いわゆるシティセールスの下手さは戦前、戦後を通じて続いていることが分かります。また、せっかく「湘南は横須賀」と展開しながら、それに拘わることなく、戦後は見事に藤沢あたりに湘南をさらわれ、今の湘南イメージが定着してしまいました。
 そこでなぜ横須賀が湘南と呼ばれたのか。また都市イメージとその売り方についても、市長の考えを聞いてみたく、以下質問します。
 まず湘南の由来ですが、中国、湖南省に中国で2番目の大きな湖、洞庭湖があります。
 洞庭湖の面積は増水時には琵琶湖の8倍にもなるそうです。また洞庭とは仙人の住まう洞窟を意味し、湖岸の山々は幽玄なる景色となって人々を魅了しました。
 洞庭湖南の瀟水が湘江に合流して、また長江など他の川も流れて洞庭湖を作り、漢詩や山水画に取り上げられてきました。この光景を描いたものが瀟湘八景で、四季の移ろいや気象の変化、時刻による景色の変わり様を描くほか、漁村風景や山あいにある寺の鐘の音など、心に染み込む風情あるものが画題として八つ選ばれ瀟湘八景とされました。
 さて問題の湘南ですが洞庭湖の南を流れる湘江当たりをさすようで、湖の南が故に湘南となります。この地は禅宗の盛んな地で、鎌倉期に栄西らが禅宗を移入した際に、一緒に湘南の地名が入って来て、鎌倉圏内の金沢から見た景色が洞庭湖に似ることから、金沢八景や湘南の指定に繋がったものと思われます。
 
 江戸時代に入ると豊臣秀吉の唐入、朝鮮侵攻に対して徳川幕府は明との関係改善のため、日明政策を推進しました。
 この時代、友好善隣の雰囲気があったのかと推測されますが、2代将軍秀忠時の1614年、三浦浄心が瀟湘八景に習い『名所和歌物語』の中で金沢八景としました。江戸時代、金沢八景は北斎、広重など人気浮世絵師によって描かれ現在に伝わっています。
 藤沢市はホームページに瀟湘の南岸は藤沢の海に似ているとして藤沢が湘南だと書いていますが、これは原風景を比較すると相当な我田引水と思います。外洋に開けた開放性の相模湾は、江ノ島があるくらいで、どう見ても洞庭湖の南にはほど遠いと思えます。
 明治時代中期までの金沢から猿島にかけての風景は深い入り江が広がり、静かな内湾の水面(みなも)は湖のように映り、かつその中に野島、夏島、烏帽子岩(追浜の沖、夏島の横にあった岩礁-写真参照)が配置され、横須賀の山並みがそれに被さり幽玄な雰囲気も感じられる事から、湘南の景色に似る所が多いと私は感じます。
 
 写真家の肩書きをもつフェリックス・ベアト(注1)が、幕末にこの光景を写真に収め、こうコメントしています。
『金沢ほど休日を過ごすに良い場所は滅多にない。横浜から12マイルほど離れ、馬で2時間もあれば行ける。途中の丘まで来ると(能見台の事)、突然広大な佳景が開ける。
 耕作された肥沃な谷が大きく広がり、(左手には)根岸湾を遠くに望み、浦賀まで続く海岸線にいくつかの景勝の地があり、丁度良い場所に島が一つ二つ点在して(野島や夏島のこと)、しばし立ち止まり眺める価値は十分にある』。
 以上金沢八景と湘南の様子が活き活きと書かれています。
 
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F・ベアトが能見台から撮影した150年程前の金沢から横須賀の光景。左の樹木越しに霞む島が夏島で、中央地続きの島が野島。その左に見える岩礁が烏帽子岩である。1970年代後半日産が再埋め立する迄は、烏帽子岩の跡という石碑が浅い海中に建っていたのを私は現認している。野島左から手前が久良岐郡(横浜南部の旧称。昭和の初め横浜市に編入)。霞む稜線が横須賀の山並みである。フレームから切れているが、もう少し左に振れば猿島も遠望できる。
 写真『F・ベアト幕末写真集』(横浜開港資料普及協会)。 キャプション 一柳
 注Ⅰベアトは幕末の事件、風俗、景色などを写真にして英国に報告するほか写真を売っている-彼を単なる写真家でなく秘密結社に属する情報要員とする説もある。

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 ですから瀟湘八景を模した金沢八景の南、即ち湘南とは三浦半島それも横須賀北部から猿島当たりを指すとした方が合理的と思われますが、市長はどう思われますか。前回の答弁に拘らずお答え下さい。
 事実昭和6年には北村包直が著者となり「史跡名勝富める湘南半島」と三浦半島を湘南半島とする冊子も発行されています。これはその前年に横浜から浦賀まで開通した湘南電車に影響されての、観光促進のパンフレットとも言えます。
 
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 1931(昭和6)年に発刊された湘南半島を売り出す冊子。郷土史研究家 山本詔一さん提供 

 北村さんはその冊子の中で『今だ史跡名勝を探るに適当な案内役がなく、このため記念艦三笠を見学する者年30万人を越えるも、駅から一路三笠艦を見終われば、再び一路往復するに過ぎず、その他の史跡名称は全く世に埋もれようとしている』と本市の脆弱な観光政策を嘆いています。これは、今も通ずる指摘であると思います。
 本市の横須賀湘南論は日中戦争の激化と太平洋戦争に至る中で、湘南より「大軍港都市、横須賀」に軸足が移ったと思われます。これは戦時中の昭和18年に大楠、佐島などの西地区から逗子まで併合して大軍港市が実現します。
横須賀市湘南を放棄 
 ではここから湘南が失われていく過程を見てみましょう。昭和8年4月には湘南電鉄は東京乗り入れのための京浜電気鉄道と連絡し直通運転を開始。開戦一月前の昭和16年11月に京浜電気鉄道との合併を行い、湘南電気鉄道は解散。湘南電車の名は消えました。更に戦時中は事業統制で強制合併させられ東京急行電鉄となり、湘南の名は更に削がれます。
 昭和23年統合が解かれ、京急電鉄に戻った後、駅名には湘南井田-とか、井田は北久里浜駅の旧名ですが、或いは湘南田浦とか駅名には湘南の名を冠していました。しかし昭和38年には駅名も湘南から京浜に改称統一され、湘南は横須賀との刷り込み効果も自然消滅の道をたどっていきます。
 横須賀を走る私鉄が戦後、湘南を使わなくなると、鉄道省の省線から国鉄になった東海道線は湘南電車として売り出し、藤沢市などが湘南ブランドを専売特許として売り出します。現状の湘南イメージは本市が湘南を放棄した結果であると言えるでしょう。
 どうもこの総括を行政内部でした痕跡があるとは思えません。また前回の答弁から推測すると市長にこの様な歴史があった、と進言する職員もいないようです。
 市長も歴史的経過を調べられた事でしょう。私の指摘にたいして、市長は湘南論に、改めてどの様な評価を下すのかお答え下さい。また都市のイメージ作りと都市ブランドの拘りに横須賀市が極めて淡泊で、戦略的に欠ける所があったとすれば何処に原因があったと思われるか、この際お聞かせ下さい。以上で一問を終わります。

 答弁は淡泊で一応「議員の指摘は傾聴に値します」と答弁したが、今更湘南の本家論を戦わしても詮ないから、戦わず、横須賀ブランドを造るという答え。
 原風景を見れば横須賀が湘南との見方ができるはずだ。まあ市長が言うようにあちらに取られて60年、イメージが固定した中でこっちが本家と言って、湘南を取り合っても詮ないと私も思う。しかし湘南は我地と思い込んでいる近隣の市長と話す時、湘南論の知識を持つことは重要と指摘した。

 質疑は中継録画で見ることができます。湘南論に興味のある方、また市長の拘りを確認したい方はご覧下さい。11月29日本会議4番目の質問です。
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by ichiyanagi25 | 2011-12-11 10:13

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