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第4回軍港資料館シンポのご案内

第4回軍港資料館シンポジウム開催のお知らせ
標記シンポジウムが以下開催されます。
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会場がベルクの大ホールと広いので申し込みは不要です。お誘い合わせの上、多数ご参加ください。
 マッカーサーはなぜペリー来航時の星条旗をミズリー艦上に掲げたのか 
 太平洋戦争は20世紀、植民地主義のブロック経済のなか、中国進出でABCD包囲網を引かれた日本が、その閉塞状態にいらだっている所にドイツの快進撃に目がくらんで今こそが千載一遇のチャンスと思った事が一つ。一方のアメリカはルーズベルト3選の際、彼は「アメリカの青年を欧州の戦場に送ることはない」と重ねて表明していたが、英仏の敗北状況をみて兵器廠となるだけでなく参戦のきっかけをつかみたかった。そして日露戦争後、中国占領をあきらめない日本をやっつけ、半永久的に日本を属国にすべく対日戦争を決意し、ワシントン条約開けを期に大海軍作りに進む。
 そして準備が大体整ったところで日本を挑発し、石油、鉄くずの輸出禁止、対日資産の凍結と日本を追い込み、最後は1941年11月末にハル・ノートを突きつけ、ついに真珠湾攻撃を「騙し討ち」の形で行わせることに成功する。ルーズベルトの「最初の一撃は日本に打たせる」は宣戦布告手交の不手際(在米大使館員の国賊的怠慢が原因)から、好都合で騙し討ちとなり、対日、独戦争に踏み切ることが出来た。原爆投下も東京大空襲での10万人焼き殺しも、全て真珠湾攻撃「卑怯な騙し討ち」への仕返しだ、とアメリカ世論は今でもそう思わされている。
 山本五十六が近衛に語ったとされる「1年や2年は大いに暴れてご覧に入れるが、そこから先は全く自信は持てない」であるが、山本は故に緒戦でアメリカを大敗北させ、米国民の厭戦気分を誘い出し停戦に持ち込むとの日露戦争の夢よもう一度の「戦略」しかもてなかった。アメリカの意図と米国民の意志を全然理解していない独りよがりで真珠湾攻撃をしたに過ぎない。 
 大体、他力本願でかつ主観論のみの戦を戦略とは呼べないし、何より日露戦争時と真逆で、英米という強力な支援国と仲介国を敵に回すのだから早期講和の斡旋者などいない。これを指摘する歴史家と評論家も少ないのもおかしい。
 太平洋戦争に至る道筋と、敗戦により保護国化された日本の近代史はどこから始まるかと言えば、象徴的に言えば1853年のペリー来航である。しかしこれは当時世界の覇者であったイギリスの制海権があったればこそペリーは日本に来れた。このへんは曽村保信氏の名著『ペリーはなぜ日本に来たか』(新潮選書)をよめば手っ取り早く理解できる。
 イギリスは幕末期アメリカよりも活発に日本を幕藩体制から国民国家へとの改造を企て、薩長を始め土佐の坂本を含め多くの若手武士をてなづけ明治政府を樹立させた。このへんは司馬史観や今までのカタログ歴史に縛られていると全然その構図が読めなくなるし、現代の世界も分からなくなる。
恥ずかしい本市のお祭り騒ぎと戦略性の無さ 
 本市は、歴史の裏側を見れば国辱の始まりの年とも言える1853年のペリー来航を「開国」してくれたと喜び、10年前にペリー来航150年を、歴史的検証は何もせず、お祭り騒ぎのみで祝し、愚昧なる一過性イベントを多々行った(今そのパンフを見ると、不平等条約を押しつけられた事を無念と感じない行政の感覚と、私も議会で論理的批判もしなかったことを含め、全く恥ずかしくなる)。米国ペースで「強行開国」させられた国家の重大事を、なぜこのようにあっけらかんと「祝」えるのか、市民はよく考えた方が良いだろう。
 そして歴史は以下展開する。翌1854年にペリーはロシアに先を越されるのを警戒し、アイシャルリターンで、再び東京湾に来て、幕府に対し「開国せねば砲撃を開始する、そして戦争になれば20日以内に米本国から軍艦50隻を呼んで、合計100隻の艦隊を集めてみせる」と脅して、「日米和親条約」を横浜で結ばせ「開国」の運びとなるのである。これを150年後に無邪気に喜んでお祭り騒ぎのみした沢田市長以下はアメリカにとってさぞ可愛らしい存在だったろう。
 その後、フランスから英国へ指導者は代わりながら日本海軍は作られ、横須賀は海軍の町として形成されていく。 
「賢者」-支配者-は自分の関与をした隠す  
 日露戦時の主力艦は殆どイギリス製だが、世界の覇者イギリスは日露戦争での指導を隠し通し、日本人だけでロシア艦隊を破ったことにした。そして日本史が文部省で作られ、数々の小説が書かれ、映画にもなった。(「坂の上の雲」を有り難く信じると、とんでもない事になる)。
 曽村氏は「日露戦争の全貌は明らかになっていない」と書いているが、日本海海戦も砲術から操艦(T字戦法も英国で考えられた)までイギリス観戦武官の指示(国際法違反)のもとに日本海軍は戦ったことが判明している。
 倒幕の実態を含め、近代史と軍都横須賀を知るには資料館を作ることが一番と思うようになった。
 さて太平洋戦争に突入する際、陸海軍の統一した戦略は蘭印の資源地帯(東南アジア)をおさえ、長期不敗体制を敷との合意はあり陸海共同作戦が行われたが、西太平洋で南北ラバウルからキスカ迄抑えると、陸海軍の齟齬はどんどん広がり、海軍は防御の為と更に先の島を取りに行き、戦線は延びきり、石原完爾の指摘通り敗戦亡国への道を転がりだす。
 結果、五十六が言った「暴れまわる」期間はミッドウエー海戦の大敗北でたった半年で終わった。その後山本は対米戦をどうするか具体策を描けず、早期講和などあり得ぬ事がわかった43年4月に前線視察を強行し、墜されて死ぬ(この無責任さをメディアは突かない)。
 海軍に引きずられた結果、陸軍もガダルの敗退以降、島嶼戦の戦い方を知らずに餓死と戦病死の山を築く。更に昭和19年以降、日本海軍の対潜作戦無策から、救助と支援が出来なくなると、陸海軍共に島に残された将兵に対し降伏を許さず、餓死と玉砕を強いた。このように戦うことが出来ずに死んだ戦没者を英霊と祭り上げて、批判を許さないようにするのは、とんでもない国家の卑怯であると思う。
 また市の観光戦略がないのは、まず歴史と向き合わず、軍港都市の歴史と今をどう活かして人に来て貰うかの根本から考えない事による。そして集客施策も殆どは外部丸投げで小規模一過性企画ばかり建てているからとも指摘できる。 
 とは言え、余り大風呂敷を広げず、戦略的思考の不得手な国民性~市の観光戦略まで、日本人が苦手とするところを語り合う最初の企画です。
  

by ichiyanagi25 | 2013-05-14 10:09

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