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軽すぎた市政百周年事業(決算認定反対討論)

感動無しの市政百周年事業に喝 
 14日で第3回定例議会が終わりました。
 市政百周年を総括するため今年決算特別委員会に諮って就任した私は以下のように総括して議会で討論しました。過ぎたお祭り「騒ぎ」に興味はないかもしれませんがご一読頂ければと思います。

 通告に従い反対討論をします。
 議案94号平成19年度一般会計決算については以下の理由から反対します。
まず反対理由の1番は市政100周年事業にあります。昨年市政100周年に関する様々なイベントが行われ提出資料によると総経費約6億6460万円程、継続事業を除くいわゆる純粋百周年企画として行われたものには約4億1千万が支出されています。
 今回決算委員に就任するに当たり、友人知人及び歴史や環境問題に精通する方に昨年の100周年事業をどう思うか聞いた所、異口同音に「そう言えば去年は100周年だったね」と言う感じで、歌って踊ってゲームをしても、結果は市民あげてのお祭り騒ぎには発展せず、市民の心に節目を祝った感動もないから記憶に残らないというのが共通していました。
特に歴史研究をされている著名な方からは、歌と踊りなど人寄せ事業中心で、横須賀の100年とりわけ、戦前戦中の約40年が100周年事業の中で戦略的に取り込まれず、企画の軽さに呆れたとの感想を伺いました。 
 私も全く同感で海軍第1軍港として発展してきた本市の歴史を企画の戦略体系に入れて横須賀はどういう町であり、どう歴史を過ごしてきたかという検証が無かったことが、全く残念です。
 決算審査の中で歴史については、いくつか取り組んだとの答弁がありましたが、それを見ると作戦として一番やってはいけないとうガダルカナル作戦の逐次投入以下のチマチマしたもので評価に値しません。
 本市は幕末から軍港として整備され明治となって海軍第1軍港になり、海軍工廠ができ、その後造兵部や軍需部、海兵団など関連部問を広げ、大正5年には横須賀海軍航空隊が追浜に置かれました。その後良好な海域を埋め立てて飛行場が作られ、昭和7年には飛行場の隣に海軍航空技術廠も造成されました。
 市長のお父さんも、昭和5年高等小を卒業後海軍工廠に入られ、空技廠開設と同時に転任され航空技術廠の航空系電気職として軍用機開発に携られており、そのさなかの昭和19年に市長はお生まれになったわけです。当時の空技廠は日本版のNASAともいえるくらいの全国から優秀な人間を集め航空技術の粋を結集し、海軍のプロタイプ機研究をし、また航空機に搭載する機銃や爆弾、魚雷などの研究をし真珠湾攻撃用の浅深度魚雷を完成させたりしています。 
 戦争中は実用機にまで手を伸ばし液冷式の艦上爆撃機彗星や双発爆撃機銀河を作りましたが、民間的発想に欠け量産向きでなく、かつ搭載エンジンに問題があり、その為稼働率が著しく低く作戦の足をひっぱったことなど日本海軍の思想と当時の工業技術の限界も示されています。
 大戦末期にはメッサーシュミットのコピーとはいえジェット機やロケット機も作っています。この時期、占領した東南アジアからの資源は殆ど米潜水艦に撃沈され、乏しい資源、材料の中、技術者の知恵と工夫と、そして意地でレシプロエンジン以外のエンジンを作り上げ実戦配備は出来なかった物の、戦争指導者の愚かさを戦後にすくう基礎になりました。敗戦後はこれら工廠、空技廠の技術者や熟練工が自動車、造船や電気会社また国鉄に入り日本を技術立国としたわけです。市長のお父さんもまさに戦前戦後その渦中におられたわけですが、市長にその拘りはないのでしょうか?
 横須賀海軍工廠は日清、日露戦争から海軍を支えていますが、太平洋戦争を例にとればミッドウエー海戦で唯一敵艦攻撃に成功し一矢を報いた空母飛龍や、僚艦瑞鶴と共に米空母レキシントンとホーネットを沈めた空母翔鶴、また大和型戦艦の3番艦で空母に転用され、あえなく潜水艦に沈められた空母信濃などを建造しています。また大和、武蔵以前の聯合艦隊の旗艦であり40センチ主砲を搭載した戦艦陸奥も建造しています。
 陸奥は戦前のアイドル的戦艦で、軍艦の絵を描けと言われれば小国民はこぞって陸奥の絵を描いたと言われます。今あげた航空機、軍艦は何冊もの単行本にもなっていますし、多くの戦記や映画にも取り上げられ、その歴史を振り返るシンポジウムを企画して、著名な作家や評論家を呼べば芸術劇場を使う規模のイベントも出来たでしょう。またこれに軍港観光をセットすれば全国的規模の人寄せも可能でした。
 何よりディスカバー横須賀となり新たな観光資源の発見もでき、今後の本市の観光に資することが出来たでしょう。海の中に疎いことはしようがないと思いますが、このような宝が入った本市の歴史財産を利活用しない頭脳構造が情けないのであります。
 また1907年の市政施行から市長は数十人誕生してます。戦後の63年は太田市長から始まり蒲谷市長までで7人ですが、戦前は毎年のように交代し38年間に数え切れ無いほどの市長が誕生しています。それは何故だったのか。政治制度の違いだけでなく、その時歴史は動いたのですが、検証の機会を無くしました。
 戦後についても同様です。戦後の本市の歴史を振り返るシンポジウムをやれば市民にもこの歴史があって今の横須賀がある事がよく理解できたはずです。軍転法の住民投票直後に朝鮮戦争が勃発、以降米海軍ベースは恒久化します。
 再軍備となり海上自衛隊の港が長浦、吉倉に作られます。 朝鮮人民の悲劇をよそに朝鮮戦争特需景気にわいた横須賀、復興後もヴェトナム戦争でも大きな役割を果たし、基地経済で潤いました。ヴェトナム戦争では反戦運動も起き、原潜闘争を含めデモも大規模に行われました。このように戦前戦後、軍都横須賀100年の光と陰を振り返る絶好の機会を流したことを真に反省されたいと申し上げます。
 また横須賀の海、山の自然環境や生態が100年の間にどう変遷したかについて取り組むよう提言しても一考だにされませんでした。人集めばかりに気が行って質の高い企画が考慮されなかったことは横須賀で58年生きてきた人間として情けなく悔しい思いがしてなりません。
 市政50周年の時、私は小学2年生でしたが断片的に印象が残っています。家庭でも話題になっていたし大人達の会話の中にも市政50年が語られていたような記憶があります。敗戦から12年たった、当時の大人達は市政50年を様々に思ったのかもしれません。
 それから50年たち、市民は百周年だからと浮かれてお祭り騒ぎで悦ぶ時代ではなくなっていたと言うことでしょう。
 以上縷々述べたように百周年事業の殆どが肯定できないため決算に反対します。
 次に美術館の谷内館関係で自分から売り込んでアドバイザーに就任した、こんなアドバイザーは他に誰もいないとの答弁もありましたが、19年度もあってはならない、このアドバイザーに297万円余を支払ったことを認めることは出来ません。昨年もこの予算には反対していますし、また今年調停を申したてた経緯もあるので、この決算認定に反対します。
 新中央図書館についても開設準備事業として金額はわずかながら使用していますが、現下の情勢から明確に凍結を打ち出した方が市民に対しても分かり易いと思うのでこれも反対します。

by ichiyanagi25 | 2008-10-16 08:41

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