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敗戦60年目の大晦日


 NHKBS2で今年1年放送された敗戦60年目の記念番組「あの日」が本日365回を迎え終了しました。各界の66歳ほどから90歳に至る著名人が昭和20年の1月1日から12月31日までの365日間の「あの日」の新聞コピーを手に様々に回顧談を展開していました。それは本に編集され販売もされています。
 話が変わって今年2005年12月7日には父が88歳で永眠しました。例年なら大晦日から元旦はお年取りの行事や元旦祭などで社寺周りをするのですが、喪中のため今年はその時間を60年目をふりかえるホームページ原稿を書くことにしました。
 さて父は一人息子故か招集を受けず太平洋戦争中一度も戦地を経験しなかった幸運の人ですが、敗戦後に命からがらの思いを何度かしています。敗戦後は軍需工場から漁師に戻った父は1947年(昭和22)には夜間操業中米兵からおもしろ半分に6発くらい小銃弾を撃たれ、命からがら網船をこいで逃げたとの体験談を聞きテープに収めたのは29年前になります。
 1951年の講和条約発効までに深浦の漁民はアメリカに2名射殺されています。父に25年ほど前に「そこまで危険な思いをしてまで操業したのは」と聞いたところ「腹を空かして待っている子供家族ためだ」と言ってました。
今年はまた横須賀空襲60年を迎えました。横須賀空襲の記録はどこもとっていないので7月下旬ベイサイドポケットで横須賀空襲から現代史を振り返る講演とシンポジウムを開催しました。
 この時、史料編纂室から写真集「占領下の横須賀で」公開された写真を未出版を理由に会場では映してもらえませんでした。
 軍事優先であった空襲避難策
 秋に販売された写真集「占領下の横須賀」にはアメリカ国立公文書館などで手に入れた戦時の横須賀の偵察、空襲写真や横須賀基地の接収の様子がまさにリアルに映され、また建物疎開の様子もよく分かる貴重なものでした。
 写真集には60年前の7月18日の横須賀空襲の様子が4、5葉掲載されていました。その写真を見れば一目瞭然「アメリカは戦後すぐ横須賀を利用するつもりだったので工廠施設には爆弾を落さなかった」との伝聞は全く憶測に基づいた想像物語でした。
 ただし完膚無きまでには叩いてないので「追浜飛行場と一体利用できる施設と考えていた」との三野正洋さんの推測をここでは支持したいと思います。
 ここで空襲体験者の当時横中4年生で海軍工廠に動員されていた人たちから聞いた話を総合すると、軍優先の避難策が見えてきました。
 すなわち警戒警報がでたら出勤に及ばずとの指令がなされていたのです。ですから何人かの動員学徒は自宅待機で空襲を体験したり防空壕から空襲を遠望したりしています。
 また工廠内に入っていた職工、学徒も空襲時はすでに全員防空壕に避難しており衝撃振動と爆発音しか聞いていないとのことでした。証言者のお一人は写真を見て「防空壕に入っていて知らなかったんですが、このような攻撃を受けていたんですね」としみじみ言っておられました。半人前の動員学徒の命でさえも海軍はきちんと守ったわけです。それに引き替え東京や横浜大空襲の民間被災者は有効な避難も軍から指示されず焼夷弾で焼かれ、まさに阿鼻叫喚の悲劇を呼んだわけです。この落差を心に刻む必要ありと感じました。
 動員学徒には給料が支給され敗戦解散時にはそれなりの手当も出たそうですから、まさに官尊民卑、軍優先の思想は徹底していたことが分かりました。この何事にも軍優先思想が聞き取りによって分かったことが私にとって最大の収穫でした。
 折りもおり今国民保護法に基づく市の条例もこれから逐次整備されることになります。この法律とそれに従う市の条例が本当に民間人をテロや国際攻撃から守るのか、総務常任委員会で審議されるので本委員を務める私はしっかり見守りますが、市の担当者にはこの大戦の教訓をどう認識し生かしているかは?マークを感じるところがあります。
 男たちの大和を見て
 また話が変わります。東映映画「男たちの大和」が、この12月17日から全国一斉公開されています。
 オープンセットを8月に尾道の造船所まで見に行ったこともあり、29日夜に映画を見てきました。見る前から角川春樹の制作なのであまり期待はしていなかったのですが、案の定、観念的な映画でした。下士官兵を中心に描いたところは庶民に焦点を当て、決して将校優先ではないとの意図があったのかもしれませんが、海上特攻への批判や海軍上層部の御身大切が痛烈に描かれているわけではありません。また女高生と海軍に志願しようとする10代の男女が屈託なく表でつきあったり、母親が道路で海軍に出した子に死ぬなという場面などおよそ当時の描写をしているとは思われません。
 BS2の「あの日」で俳優加藤武さんが言っていました。アメリカ軍が築地の海軍経理学校を接収し、気の良さそうなGIがよく近所の加藤宅を訪ねてきた。ある日、日本に来る前はフィリピンの捕虜収容所にいて日本兵を扱っていたと聞き「何で日本兵に捕虜がいるんだ皆自決するはずではなかったのか」と、当時14歳の中学生だった加藤さんが60年後の今年に「生きて虜囚の辱めを受けず、死してその罪過を残さず」との戦陣訓は国民総てを洗脳していた事を語っていました。
 神奈川新聞の映画批評家服部宏さんが言われるように日本人は未だ本当に戦争映画の真実を描く資質に欠けていると思わざるを得ず、「プライベートライアン」の足元にも及びばないと感じました。
1944年のマリアナ、レイテ海戦により日本海軍は実質壊滅していました。それを一億特攻の先駆けとして大和以下軍艦10隻を航空機の援護皆無で沖縄に差し向け、差し違えるとの作戦は作戦の名に値しません。命令を下した豊田聯合艦隊司令長官以下幕僚は横浜日吉の防空壕は出たものの率先垂範を実行せず大和以下の軍艦に座乗することはありませんでした。 
 この水上特攻を命じた海軍上層部が敗戦時自決したとは寡聞にして聞いたことはありません。この水上特攻で死んだ4000名前後の将兵は靖国にまつられているのでしょうが、私はそれで事足れりとするとする思想を許容できません。
お互い来年を良い年に
 さて来年はどのような年になるでしょうか?小泉劇場に翻弄されることなくしっかり本職を全うしようと思います。そしてどうぞ皆様良いお年を。また良い年にされるよう。
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by ichiyanagi25 | 2005-12-31 00:00