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地方議員か痴呆議員か?劣化する議員のレベル

地方議員か痴呆議員か?劣化する議員のレベル
問われている議員のレベル
 各地の第2回定例会では都議会でのセクハラヤジ(横須賀市議会はその点ヤジはなぜか殆どでない)から始まり、温泉地に百回を超える「視察」費を政務調査費で計上して号泣で記者会見をごまかしたものの、議会からの圧力で辞職した超バカから、共産党区議がツイッターでの誹謗発言をしていとも簡単に議員辞職した。また横浜では鶴見区選出の隔世二世自民議員(18日付除名)が脱法ハーブを吸って逮捕される事件まで起きて地方議員の質が問われている。
 兵庫の号泣おバカは論外だが、これだって議会事務局や議長からこんなことは許されないから、「政調費」報告出し直しをするか、もっと言えば公費支出にはなじまないので返金(役所用語なら不要額)するように再三言われていたはずだ。でなければ議会事務局や議長の任務を果たしていないことになる。それに応じないからメディアにリークされ記者会見が設定されたわけだ。
 そこであのような記者会見(言い訳を考えたが、とても無理なので号泣し、同情を買おうとした?)をしたのだろうが、2度と同じ手は使えないので、姿をくらまし、観念して辞表を提出した。
 兵庫県議会も閉会中だったろうが「待ってました」と議長は議員辞職願を受理した。しかしこれですんだ訳ではない。政調費の不正受給は詐欺罪にも当たる。市民団体から告発されるであろうが、これは刑事罰を下した方が良い。また、これほどでもないにしても胡散臭い支出をしているのは一人だけではないはずなので、他の議員に対してもオンブズマンのチエックは厳しくなるだろう。
 メディアは議員のバカぶりだけ暴くのではなく、こう言う議員を当選させた、後援会長とか役員の意見を聞けば良かったのだ。この手の議員は専門職は持っていない(元役人だったとか)はずだから政策なんて語れなかったはずだ。少子化とか高齢化に取り組むなんてのは専門分野に入らない。何でこう言う輩を応援して議会に送ったか、応援をするときに見抜けなかったのか、その責任を問うた方がよい。
 多くの問題ある議員を当選させる市民にも問題ありと思わざるをえないからだ。町内会長など地域のボス的存在や会社経営者などがそう言う議員の後援会を作ることが多いから、むしろそっちのほうの責任追及をした方が良い。送り出した側の責任が問われねば候補者の劣化は止まらない。また今回の号泣議員など後援会には以前から問題点は耳に入っているはずだから、注意も出来ていないなら余計問題だ。
議員はネットに操られるな
 また議員はネットで足をすくわれないようにした方がよい。この頃はブログよりツイッターばやりだが、かねがね私はこれは引っかけられやすい危ないツールだから、議員はやらない方が良いと思っていた(ブログだって時々とんでもない反応が来るのだから)。
 ところが共産党の区議が集団自衛権問題で「過剰」に反応(一般人同士なら問題にならない)してしまい、ネット特有の一斉攻撃が始まり炎上したら、何と簡単に議員辞職してしまった。選ばれて議席を得たことを忘れ、簡単に辞表を書くのは潔さではない。
 議員は何百、何千、何万の人に自分の名を書いて貰って当選するのだ。その人達の期待を裏切ったりしてはいけない常日頃の自覚が必要なのだ。まして当選させて貰ったのに簡単に辞表を出すという責任感のなさが気になった。
 こういう(やり取りの)ことで簡単に辞職するようなことが流行となると、これを利用して議員を攻撃する輩が必ず出てくる。
 逆に考えれば議員としてツイッターのメリットは何なのか?。自分の考えをどう表現するかは拙速さを競うことではないだろう。
 横須賀市議会でも藤野議員がツイッターに即反応した発言をして市民から名誉毀損で訴えられた。これは脱原発の集会で主催者に無断でビデオ撮影したことが発端だが、著作権と肖像権を理由にそういうマネが出来ないように措置したのだから、相手の土俵に乗る事はなかったのである。ツイッターは本当に危ないから、挑発に乗りやすい人はこんな者はやらないことだ。ネット攻撃に最良の反撃はネグレクト(反応しない)なのである。
まともな議員を養成する機関がない
 しかし国会議員も地方議員も、劣化する一方だ。
 といっても昔の議員が優れていたかと言えばそうとも言えない。横須賀の場合、蒲谷市長時代までは保守系はとにかく本会議で一般質問をしなかった。30年ほど前までは特に保守候補が選挙期間中「何とぞ私を市政壇上に立たせて下さい」というフレーズがあった。市政壇上とは本会議場の演壇のことで、イコール当選させてとのアピールである。が当選すると1回も市政壇上に立とうとしないのであった。
 議員1期目と思うが、「何で質問しないのか」と同期の保守議員に聞いたところ「俺は与党だから質問しないんだ」と悪びれずに答えた。
 質問するのは「野党」で、犬の遠吠えみたいなことを言ったから「地方議会は議員内閣制ではないから与野党なんてあり得ない」と指摘したら「わしゃ、そんな難しい話は知らん」というから「議会のイロハも知らずして立候補するな」と言って大分険悪な雰囲気になったことがある。
 しかし、質問をしないと言うより、出来ないという事に気がついた。要するに質問を構成できる力がないということと、質疑を通して自分の考えを実現しようという政策へのこだわりがないのである。今でもそうだが理事者と質疑を交わしていて詰めもなく「よろしくお願いします」と質疑を終わる議員ほど自分自身の政策が持ててない証拠だ。中継録画で委員会審議を観ると実に「お願いします」がよく出てくることに気がつかれるはずだ。
 そして分権と財源移譲をさせて地方が独立して市政を動かすことが一番の住民サービス向上に役立つと言うことを認識していない議員が多すぎる。だから今でも特に保守市議の殆どは国のやり方を批判しない。と言うか今の政権が官僚に支配されていることに疑問すら感じないのだ。官僚支配では行けないとの党人派の感覚すらない。政党優位であるべきとの党人派は本当に少なくなった。
 根本を認識できてない議員にまともな議員活動が出来る訳はない。だから「どぶ板」的矮小議員しか生まれず、町内の行事、集会にはこまめに顔を出すが、政策は全て行政頼みという議員が多い。こう言う議会だと市長以下役人は楽でしようがなくなるが、市政は停滞する。いやこれからは、停滞ではすまずに衰退し市民生活が崩壊していくだろう。
議員の劣化は誰のためになるのか
 これは戦後のアメリカに楯突かないように巧妙に仕掛けられているとしか思えないが、まともな国会議員や地方議員を養成するところがないのが問題だ。
 松下政経塾があるが民主党政権でこの政経塾出の議員が総理や閣僚になってすっかり化けの皮がはがれたが、ここは対米従属と新自由主義的に財界に奉仕する議員の養成機関である。
 この頃は松下幸之助(故人)を批判することもなくなったが、松下電器(ナショナル現パナソニック)はパクリ製品が多いので30年ほど前まではマネシタ電気と揶揄されていた。その創業者が作った政治家養成?学校だけあると言うことだ。
 大学の政治学部も何を教えているのかと思う。政経学部出の議員に聞いても本当の地方政治や自治を学ばせているとは思えない。独立国の気概を持って政治に当たることと本当の歴史を教えているとは思えない。どうしようもない国になったものだ。
 また学力優秀者は経済人にしろ官僚にしろ米東部のハーバード、イエール、プリンストン大学などの難関大学に留学するが、ここで殆どが洗脳されてアメリカに従うことに疑問を持たないエリーとして送り返される。
 ハーバードがその頂点だが、同校ではビジネススクールとケネディスクールが重要であり経済と政治の二つの分野の人材育成をしている。また同校は基本的に男尊女卑の気風だと古村治彦の『ハーバード大学の秘密』にある。90年代までは留学組でもアメリカの意のままにならない者が居たが(孫崎氏や引退した加藤紘一氏なども留学組である)今は殆ど対米従属と新自由主義者にされて日本支配の代理人の竹中平蔵を筆頭に日本売りをしている連中が多い。
 経済人でのビジネススクール出身者に楽天の三木谷が居るが、すっかりハーバードにかぶれて、同校のスクールカラーであるクリムゾン(えんじ色)を楽天イーグルスのユニホームに採用している。
反権力と地域主権を指向する議員養成こそ必要
 私が投票権を持った70年代前後には3大都市圏を中心に革新自治体が多くできて、県内で言えば横浜や川崎で革新市政となり自治労や社会党が地域などで勉強会を開いて、そこで美濃部知事や知事ブレーン(都留重人氏とか社会党きっての経済論客の木村喜八郎氏や後に作家となる童門冬二氏とか凄い人が多かった)から政治学やシビルミニマム論を聞き、飛鳥田横浜市長からは3割自治で如何に地方自治が抑圧されているかなどを聞かされ勉強になった。当時の革新自治体は公害対策に画期的なことをやって、政策面で政府をリードしたことも大きな影響を受けた。
 また自治労は特に革新自治体を作ろうとする動きから住民や市民運動との連携も大事していた。80年代横須賀市の職員厚生会館が木造の頃、(諏訪小の隣で駐車場のあるところがそうだった)私も含めて様々な人が相談に訪れていた。
 市職労を代表として地区労の官公労はバブル期の開発全盛の時代には安浦埋めたて問題や人工島問題などに対する環境問題や住民運動と連携した。
 なお私は70年代初めから環境問題にかかわり、好きな海を公害や埋めたてから守ることか取り組んできたが、70~80年代は常に組み合いや社会党議員との連携がありセミナーやシンポも協力して開催したり、海を潰すなと共に映画づくりをしたこともある。それで90年に社会党から非労組の市民派議員として市議に立候補しないかと口説かれたことで91年に初立候補して今日に至る。
 エリート教育に対する草の根の人材や保守でも弱者への共感を持つたたき上げとか、反権力の議員を生み出す養成機関がなくなってしまったことが、政治家劣化に多いに関係していると思わざるを得ない。
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by ichiyanagi25 | 2014-07-20 10:31

元陸自一佐との座談会 

元陸自一佐との座談会 
 &集団自衛権行使容認と陸自と海自の違い

        
 7月7日に元陸自一佐の荒谷卓さんを招いて、集団自衛権行使をさせないためにどうしていくべきかの座談会を持った。
 参加したのは5/10の孫崎講演会に参加した人で、安倍政権の暴走を心配して(怒って)何とか出来ないかと思う人達10人ほど。
 荒谷さんからは現状に至る「日米同盟」論に基づく、アメリカと従米勢力の囲い込みがあったことが説明された。90年代前半の冷戦崩壊後、米は対ソ同盟の必要性が薄まったことから日本が自立志向を高めるのではないかと警戒した。
 それから97年の周辺事態法整備に観られるように中国と北朝鮮を意識した台湾海峡や朝鮮半島有事に備えることとし(実際のところは中台関係は70年代と違い経済の結びつきが濃密で緊張関係にはない)、更に05年(小泉内閣)には新世界秩序として「未来のための変革と再編」が米主導の下に決められていき、この中で普天間の辺野古移転や原子力空母横須賀配備が決まっていった。
 一方自衛隊でも冷戦崩壊後、自衛隊の存在意義をアピールする理由付けが必要となった。中国や北朝鮮の脅威を言ってみても日本に日米連合軍相手に敵前上陸できる海軍も海兵隊もない訳だ。それで主にミサイル迎撃に論点を移してメディアに流した。
 この流れの中で07年第1次安倍内閣のもとでGソメアと呼ばれる秘密協定を結ばされ、アメリカとしては米軍と共に行動する用意があると受け取られ、それが昨年末の特定秘密保護法につながった。
 しかし「未来のための変革と再編」では政府・外務省は、国民には、何も変わらない、といい続けてきた(当然国会答弁でも)。07年当時久間防衛長官も国内法の整備に関連するとの認識はなく米国務長官から指摘されて驚く場面が映し出されたという。以上を荒谷さんが解説してくれた。
 この事は失脚させられた守屋元防衛次官が認めているように、日米同盟とは米国が一方的に決めたものを日本が従うだけの関係である。そもそも自主、自立した安全保障政策を持たない日本なのだから、「共通の戦略」などあろうはずはない。
危険の分担は求める。しかし自立した抑止力は決して持たせない。これが米国の一貫した対日安全保障政策である。
 それが今回の解釈改憲での集団自衛権行使容認に結びついた。
 と言うこと流れになるのだが、なぜ安倍政権がこれほど前のめりになるのか。
 今までのどちらかというとのらりくらりがジャパンハンドラーズを怒らせたのかは不明だ。
アメリカの僕を約束してスタートした海上自衛隊
 そしてもう一つ、1956年占領を解いた後にすぐさま再軍備させられた陸海自衛隊について、参加者の認識を共有するために私から荒谷さんに質問して経過を確認した。
 そもそも朝鮮戦争初期は南進してきた準備万端の共産軍の攻勢に韓国軍も米軍(後の国連軍)も押され放しで朝鮮半島から追い落とされるような状況となった。
 そこでマッカーサーは日本駐留の師団を即刻引き抜いて、朝鮮半島南部の戦線に送る事にした。
 しかし、すると日本ががら空きになって、当時の状況からすると共産党がソ連の指示で武力闘争を起こし内戦になる可能性もあり、天皇もそれを憂慮し急いで陸軍部隊を作ろうとしたが、日本を2度と戦争できない国にしようとしてきたから、いきなり陸軍復活では国民も納得しないので治安目的と言うことで警察予備隊との呼称で再軍備を日本政府(吉田内閣)に指示した。これが言われているところの再軍備の背景である。
 この時、旧陸軍幹部で大東亜戦争の対米英作戦を立案した服部卓四郎(大本営陸軍部の作戦部長-訂正、作戦課長であった。部長は田中新一で作戦班長が辻正信)大佐がかつての陸軍幹部を誘い再軍備役を引き受ける事になった。マッカーサーのナンバー2のである参謀のチャールズウイロビーは右翼思想の持ち主で反共意識が強く、旧陸軍の服部らに占領中は同情を禁じ得ずというか、むしろ気脈を通じていたので、幹部に登用しようとした。
 しかしGHQの意向に反し国務省など米本国政府は対米戦争を引き起こした旧軍幹部登用に難色を示し、吉田に服部ら旧軍幹部に対し忌避を命じた。吉田は旧陸軍に警察予備隊を任せるのではなく、旧内務省の警察幹部に警察予備隊の指揮を任せた。
 訓練の様子を見に来た米軍顧問団から「これは軍隊の訓練ではなく治安維持には役に立たない」として改善を命じられ、対米戦立案には関与していない実戦部隊の佐官クラスまでの登用が認められて、陸上自衛隊へとつながる。故に陸自将校にはアメリカの言うがママを快く思わないDNAがある(これは荒谷さんも海自とは違う、抵抗感が陸自にはあるとし、空自はジェット機のない近代軍はあり得ないと一番最後に作られた。対米感覚はあえて言えば無機質と)。
 一方海軍の再軍備時の名称は警察予備隊ではなく海上警備隊である。海上で共産党の争乱は起きないから目的が違う。
親米野村と横須賀基地のフリーメーソン
 陸海の再軍備の経過で決定的に違うのは、海自の場合、開戦時の駐米大使であり海軍大将の野村吉三郎が、政府の頭越しでアメリカ海軍に対してアメリカの指揮下に入るから海軍再建を認めてくれと言い出していることだ。
 それに対し記録に残っているものでは、昭和25年10月、吉田茂内閣総理大臣が主催する会食の席上、極東海軍司令官ターナー・ジョイ中将より、野村吉三郎元海軍大将に対して、ソ連海軍から返却され横須賀港に係留されているタコマ級フリゲート10隻の貸与を認めてもよい旨、返事がある。
 そしてその1年後の昭和26年10月19日吉田首相と連合国軍最高司令官リッジウェイ大将の会談において、フリゲート(PF)18隻、上陸支援艇(LSSL)50隻を貸与するとの提案が正式になされ、これらの船艇受入れと運用体制確立に関して政府の諮問に答えるための委員会の設立された。これをY委員会と言うがY委員会は内閣直属の秘密組織であり、海上警備隊の発足前日にあたる昭和27年4月まで、新日本海軍再建のための計画策定にあたった。
 この野村提督だが、旧紀州藩士の出で明治10年生まれで海兵26期、海軍大学を出ずして海軍大将となっている。ドイツ駐在武官時代などに国際法を学んだこともありワシントン軍縮条約交渉にも随行した。野村は日本を真珠湾攻撃へと駆り立てたF・D・ルーズベルト大統領とも親交のあった「親米派」である。
 このため何とか日米戦争は避けたいとして近衛、東条両内閣で開戦前の日米交渉を纏めるために、昭和16年1月に駐米大使となってワシントンに赴任した。
 そして運命の同年12月7日(現地時間)、この野村らが真珠湾攻撃の前に手渡すよう厳命されていたにもかわらず、宣戦布告文の暗号解読に非常に手間取り、真珠湾攻撃が始まって1時間以上たってハル国務長官に宣戦布告書を渡したためアメリカ政府に「騙し討ち」との口実を与えた。
 ジャップのスネーク・アタックにより米議会は真珠湾攻撃の翌日大統領の要請を認め、対日戦争開始を宣言した(ヒトラーは12月10日に軍の反対を押し切ってアメリカに宣戦布告した)。
 何より後生の国民が理解しないと行けないのは日米戦の本当の経過である。
 野村らの宣戦布告文書の手交の致命的遅れは「騙し討ち」としてアメリカ国民を一つに纏めてしまったことだし、これが原爆投下容認に結びつくことを理解する必要がある。 野村は「騙し討ち」としてしまった最高責任者(国賊)なのである。野村は海軍親米派のトップであり、宣戦布告手交の遅延行為は本来究極の利敵行為として、武人ならまさに切腹ものの処分が下されても不思議はないが、交換船で翌年帰ってきた野村らは東条内閣も一切責任を問わず、そして戦後もまた一切お咎めなしで、ついこの間まで海軍善玉論がまかり通っていた。
 その人間が戦後は海軍再建の立役者になる。先にも書いたが陸軍の場合旧軍幹部の登用は一切認められなかった経緯がありこれが陸自文化に影響している。(服部らが外されたのは「講和条約は日本の独立をもたらすものでなくてはならない」と言っていたことなどに原因があるだろう)。
 陸軍に対してとは大違いの厚遇ぶりはリメンバーパールハーバーを演出できたお返しか。そして海自はアメリカ指揮下の海軍となるのであり、この経過からも海自の幹部は圧倒的に親米派(従米に疑問を持たない)が多い(海自村では反米や非米は昇進できないだろう)。
 そこで私の感想だが野村はフリーメーソンではなかったのかと言うことだ。
 因みに戦後日本に初めてフリーメーソンロッジが開かれたのは横須賀基地内であり、現在は在横須賀、佐世保、沖縄、三沢、座間など米軍主要基地にロッジが置かれている。そして横須賀にロッジを開いたのは横須賀の自民党が有り難がっている横須賀基地司令官のベントン・デッカーである(青木富貴子著 新潮社刊「『パケナム日記』が語る日本占領」より)。
 なお横須賀ゆかりでこれまた開国してくれたと有り難がっているペリーもれっきとしたメイソンリーである(ウイキペディアにも堂々載っている)。故に野村の戦前戦後の行動をみるとフリーメーソンではなかったかと疑いたくなる。
 蛇足だがディボディエ邸が解体される前はフリーメーソンのロッジ(協会と表現)に使われていた(この事実を言うことに教委は当初躊躇していた)。
独立国としての国際貢献は
  話題がフリーメーソンと海自創設に行ってしまったが、荒谷さんとの座談に戻し結論にしたい。
 7日の座談会で聞いて参考になったのは11年前にイラクに陸自の指揮官として人道支援に行った荒谷さんの指摘だった。
イラク国内での陸自は他国の人道援助の違い、住民にアンケート調査をして何を希望するかを聞いた。道路工事や学校の再建にしても他国軍都は違い緻密に住民との意見を聞いて工事をして感謝された。外国の軍対だと人道援助にしても部族長の言うことを聞いて道路を作ったらその部族長の利益につながる道路だったとだったが、陸自は民衆の意見を吸い上げて活動し住民から感謝されたと。
 荒谷さんはイラクは件の教訓を元に、日本が世界に提示する共存社会のヴィジョンを自衛隊やODA等の具体的活動で示していくべきだとしている。
 またこう言う声がメディアに全く出てこないで、読売、産経や日経はアメリカへの協力が足りないと叫ぶばかりで国民の半分が洗脳されている。
 体験談は安全保障学会で発表しているそうだが、そういうことが本になるとか、また対米従属でない野党が陸自OBから積極的に話を引き出すなどの工夫により、アメリカの都合で動く自衛隊にしないように世論形成をはかる必要がある。
 しかしこれは小沢一郎さんが言っていたことではないのか?
 とにかく反対をいうだけでは安倍は薄笑いで(陣笠議員)数を頼みに押してくるだけだから、対米従属政権が言い訳に困る方法を採って反攻に転じることだと思う。
 この意見に賛成の人は一緒にやりたいと思う。
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by ichiyanagi25 | 2014-07-13 07:07

パンとサーカス、サッカーは1勝も出来ずに終わる 

パンとサーカス、1勝も出来ずに終わる 
選手のコメントは旧軍思想?

  「パンとサーカス」(食料と見世物を与える)とはローマ帝国時代、ローマに於いて政治から市民の目をそらせる為の愚民化政策として知られる。転じて現代にも使われる。
 オリンピックの視聴率を上回るワールドカップは、その伝で言えば世界最大の見世物であり「パンとサーカス」の代表とも言える(放映権料は2千億円、スポンサー収入は1千億円以上という巨大ビジネスでもある)。
 事実ブラジルでは貧困と格差でデモとストが絶えず『スタジアムより学校を』とか、当初取材に乗り込んだ日本のメディアも少しはブラジル国民の怒りを報じたが、本番が始まればそんな話は一切報じられなくなった。
 しかし日本代表は弱いねえ。そして困ったことに選手の試合後のコメントが旧軍思想と同じで、敗因分析と合理的対応を考えずに同じ戦法を繰り替えして負けた事と似ていたので、このブログをアップすることに。
 さて1戦目で勝てると踏んでいたアフリカ勢に負け、次のギリシャも何とか競り勝つとしてあわよくば2勝1敗、悪くても1勝1分け1敗で決勝トーナメント進出へと捕らぬ狸の皮算用をしていたが、全く自己都合のみの甘い期待は通用しなかった。
 当然だ。コロンビアはFIFAランク10位以内だしコートジボアールだって20番台前後、ギリシャは其れより上の10番台であり、日本は46位だ。
 これでリーグ戦突破の甘い見通しを流し続けた解説者などは、第2次対戦前にアメリカと戦っても勝てると全く見当違いを流布した連中とどこが違うのか、と言いたくなる。また3戦目でコロンビアが格下メンバーにかえて出て来るから日本にチャンスはあるとか言っていた連中の無責任さは呆れる限りだ。格下だが日本選手よりは格上だった。
 またメディアは日本を持ち上げる解説者やコメンテーターだけ起用し「日本の今のチームではワールドカップクラスには通用しない」と厳しい指摘は殆ど出ていなかった。日本メディアの報道自由度は59位だから、日本のメディアは安倍サーカスの宣伝係と言った方が良さそうだ。
 ところで私が初めてサッカーを実際に観たのは今から50年前の東京オリンピックで、雨の中三ツ沢競技場で優勝したハンガリーとルーマニアの準々決勝試合である。
50年前日本人はサッカーなど知らなかった
 東京五輪の頃、日本ではサッカー何て全く知名度なく、テレビ中継されるプロスポーツでは野球かボクシング以外はなかった。64年の東京オリンピックでは首都圏の中学、高校に各競技のチケットが配分された。陸上、水泳などは各校に1枚くらいだったか?。またこの時から採用されたバレーボールも女子日紡貝塚ブームで人気が高く教室でジャンケンでチケットを争った覚えがある。
 東京五輪のサッカーでは参加チームは13ヶ国で開催国日本も準々決勝に進み(ここで敗退)10月18日の日曜日には三ツ沢他4会場で行われたが、JOCはサッカーが超人気薄なことと、加えて外国同士の試合で観客が余りに不入りだと拙いと思ったらしく、三ツ沢競技場で行われた準々決勝戦は横浜近郊の中学生向けに大量のチケットがまわってきて(他の三会場でも同様か)、余り競争にもならず観戦することが出来た。
 又引率の先生からは「サッカーは野球と違い雨でもやるから雨でも必ず追浜駅に集合するように」と注意を受けた様に思う。事ほど左様に子供も大人もサッカーのことなど知らなかったのである。
 東京五輪の翌65年に実業団チームによる日本リーグが出来て4年後にメキシコ五輪で初の銅メダルを取って第1次サッカーブームが起きる。
 それから50年、今回の敗退ぶりを観て70年代の日本代表のアマチュア時代を思い出した。弱いチームの負けパターンは前半はそこそこの戦いをするが、後半ば全ての面で差がでて2~4点取られてボロ負けが特長だった。
 その冬の時代を経て93年にプロ化して日本サッカーはうんと進化し?ワールドカップにはアジアから連続出場を果たすまでになったが、世界はそれを上回り進化している訳だ。
 それにしてもメディアは嫌らしいほど優しい。こんなに優遇されていたのにこの結果は何だとの厳しい意見が殆どない。それにつられてか、パンとサーカスにどっぷりつかっているファン、サポーターの人の良さ(反応)は何だ。おまけに1勝も出来ないナショナルチームの帰国を歓迎したというのだから、もうとうてい理解できない(安倍政権はワールドカップ開催中に集団自衛権行使容認を自公合作で決めた)。
 この状況にあきれているが、もう一つ凄く違和感を感じたのが負け戦後の選手達のコメントだ。「このスタイルを貫くとか」「自分たちのサッカーをする」などが目立った。このコメントを聞いて思い出したのは、今のやり方が通じないないということを自覚しないで、同じ方法を繰り返して何度も負け続け、敗戦を招いた旧軍の体質ととてもよく似ていることだ。
 負けを分析することが肝要
 戦争末期、堀栄三と言う大本営陸軍部の若い参謀がいた。
 昭和19年秋、海軍が陸軍や首相、天皇まで騙した台湾沖航空戦の大戦果であるが、これを疑い、鹿屋海軍基地に出向き帰還した搭乗員を厳しく問い詰め、大本営が発表した以下の発表が海軍の大嘘だと見抜いた人だ。その大嘘大戦果とは以下である。
 大本営(昭和19年10月19日18時)発表
 「我部隊は10月12日以降連日連夜台湾及「ルソン」東方海面の敵機動部隊を猛攻し其の過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり」「我方の収めたる戦果綜合次の如し」 轟撃沈 航空母艦11隻 戦艦2隻 巡洋艦3隻 巡洋艦若(もしく)は駆逐艦1隻。
撃破 航空母艦8隻 戦艦2隻 巡洋艦4隻 巡洋艦若は駆逐艦1隻 艦種不詳13隻
撃墜 112機
「(二)我方の損害 飛行機未帰還312機」「本戦闘を台湾沖航空戦と呼稱す」。
 堀参謀は、前々から撃墜、撃沈しても国力の凄いアメリカは次々空母や飛行機を繰り出してくるとの海軍の分析と戦果確認の仕方(実際は撃沈撃墜とカウントしていた軍艦や航空機が再出撃していただけ-これで物量で負けたとなる)に疑問を抱いていたので、大航空戦が行われているなら実際の航空戦の実態を見せて欲しいと懇願し、とにかく鹿屋基地まで運んで貰った(そこから先へは行けなかった)。
 ピストで上官に戦果を報告して隊舎に帰る海軍搭乗員を掴まえ、「君は空母を撃沈したと報告していたが、この絵にあるどの艦影か」などと具体に問い詰めて行くと皆あやふやになる。この時は昼間攻撃は無理と言うマリアナ海戦の教訓から夜間、薄暮、黎明攻撃であり目視の戦果確認は難しいが、こいつは相当眉唾な戦果であるとの思いを強めた。
 この時は陸軍も雷撃部隊を作って海軍の指揮下に入っていたので、堀参謀は陸軍の飛行隊長を見つけ問いただすと、『(攻撃に)出した部下は殆ど帰ってこない、戦果確認は誰がしたのか?。参謀、あの(米海軍の)対空砲火をくぐり抜けられるのは10機に一機くらいだ』。そして『あの対空砲火を知らずして作戦を立てる参謀はどうかしている』となじられ日本の作戦立案者の現場知らずを痛感した若手参謀だ。
 大戦果を報じた海軍は天皇からもお褒めの言葉を頂き、小磯内閣は国民に対し「戦勝を祝して」と特別配給をして日本国中お祭り騒ぎとなった。余談だがヒトラー総統も海軍の大戦果に騙され祝電を送ってきたという。
 しかし実際の戦果は撃沈ゼロ。巡洋艦2隻を大破させたのみで肝心な空母はエセックス級空母を1隻小破させたのみだった。何しろこの撃沈・撃破数字を合計すると太平洋に展開しているすべての米正規空母を葬ってもなお、お釣りが出る数字であることだ(これすらに気づかない大本営とは何だ)。
 ということで、さすがに海軍もこの大戦果に疑いを持つ参謀が居て、高速偵察機「彩雲」を出すと、壊滅したはずの敵機動部隊が輪形陣を組んで堂々航海中であると電信が来る。しかし海軍は天皇の叱責を恐れて、実相を政府にも天皇にも陸軍にも伝えない(こんな軍隊だったのである。台湾沖航空戦を初めて知った人は、これを契機にあの戦争を見直すべきだ)。 
 大本営といえども陸海軍共に真相を相手にあかさず戦争をやっているだから、これで米に勝てたとしたらまさに奇跡と言える。軍務官僚の都合の悪いことを全て糊塗する体質ここに極まれりで、海軍のメンツの為に後のフィリピン決戦はより悲惨な展開となる。 何より問題は日本海軍が米海軍の対空砲火の苛烈さに対し、この直後、通常攻撃は通用しないからと、優秀国民の命を無視して特攻へとした走りになったことだ。
 またで台湾沖航空戦での当方損害だが未帰還312機は何も意味するかである。
 海軍はマリアナ海戦で完敗して母艦搭乗員を大量に失い機動部隊の編成はできなくなっていたから、この時は軍艦出撃はなく陸上基地からの航空攻撃のみだったが、未帰還が312機もでている。出撃した艦爆や艦攻は二座、三座で、この時は陸軍も協力して爆撃機(5,6人乗り)がでているから搭乗員は千人以上が未帰還(戦死)となった。日本はパイロットの救出を開戦時から考えていないから、このツケがもろにでた。これでパイロットと戦闘機が不足してレイテ海戦のエアカバーが出来なくなり、それで以降特攻出撃となる(だから特攻をエモーショナルに捕らえては絶対にいけないのだ)。
 軌道修正や降参ができない日本
 話を堀参謀に戻すが、台湾沖航空戦について堀参謀は事実をつかんで愕然とした。しかし、これではフィリピンの決戦(フィリピンを失うと南方資源ルートが完全にたたれる)が危うくなると、気を取り直し現地に飛んで、空母は1隻も撃沈していないと説得したが、現地部隊は大本営の命令もあり敵機動部隊は消滅したからとルソンからレイテ決戦へと変更した。
 アメリカは1枚も2枚も上でNHKラジオで放送される大本営発表を否定せず、かえって調子に乗らせて日本敗戦の促進を謀り、そして日本の航空勢力が大幅に減じたことなどをみてフィリピン上陸作戦の前倒しをマッカサーとニミッツに命令する。
 堀参謀はこれ以前の昭和18年末からのギルバート諸島への米軍の上陸作戦から、日本陸軍が取る水際撃退作戦は通用しないことを認めて早急に撃退法の練り直しを求めた。 陸軍は海軍に引きづられて太平洋の大小25の島に守備隊を配置していたが昭和18年以降は、海軍の対潜兵器のお粗末(護衛戦の意識がなく対潜準備なしで戦に入った)極まり、潜水艦攻撃に全くお手上げで船団護衛は崩壊していた。
 更に昭和19年になると米機動部隊の進出も加わり輸送船がまともに港に着くのは幸運以外なくなった。故に展開した太平洋の島々にはついには弾丸一発、握り飯一つの食料も送る事が出来なくなる(アメリカは兵糧攻めにした後は飛行場確保-制空権確保-のために7つの島に敵前上陸したのみで、後の島は捨て置いて日本将兵を餓死と病死に追い込んだ)。
 また堀参謀は上陸前の猛烈な艦砲射撃と空爆により水際撃退は成り立たないことと、上陸後は陸軍の砲兵部隊と歩兵部隊の迫撃砲の砲撃の凄さと、突撃をすれば多数配置された機関銃と自動小銃弾の雨あられで日本兵を撃退する上陸作戦パターンを分析し、昭和19年のサイパン戦までには『敵軍戦法早わかり』と陸軍としては珍しいハウツーもののガイドブック(パンフ)をつくって守備隊参謀や司令官に配布した。
 日本陸海軍が決定的に駄目だったのは作戦をたてる参謀達が誰一人航空攻撃部隊に同行せず、米海軍の対空砲火のすごさやレーダー監視による迎撃ぶりを体験していないことだ。
 現場を観ずに敗退する前線指揮官の敢闘精神のみを問うて「臆病者」とののしり、有効な兵器も戦術も開発せず、戦陣訓や精神論を強調するのみというのは詰まるところ、米軍の圧倒的攻撃を前に、「シナ軍相手」とは、これほどまでに違うとの現実を受け入れられずに、そして実際、もう何をして良いか分からないと言うことだったのだろう。
 しかし自分の愚かさと敗北は認めたくないから国民にその責めを転嫁して特攻を命じ、民間人も投降を許さず自決させたのである。彼我の差がつきすぎて如何にしても対抗できないなら戦争の場合は講和を求める事が政府や政治カ家の仕事だ。
 サッカーなりのスポーツで、世界と戦えるナショナルチームを作るなら、通用しない作戦の変更や、根源的にこう選手育成をするとか、もう日本人だけでは無理だから、どこかの血を入れるとか(欧州・南米チームは白人黒人混成だ)の根本対応を取らねば結局旧陸海軍と同じ事を繰り返すのだろう。
 そして其れは横須賀市にも言える。なぜ人口が減るのかまったく、真相を掴もうとするセンスがなく、なんで藤沢に追い越されるのと愚痴をこぼすだけだ。若い市長にこの衰退期を任せた有権者は5年後にとんでもない状況を見ることになるだろう。その時中年になった市長は横須賀にいるのだろうか?
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by ichiyanagi25 | 2014-07-02 16:43